第1講 Hilbert空間

まえがきのようなもの

 最近というか今年,現代的な量子力学の教科書が増えた.と聞いて堀田先生の教科書(通称:堀田量子)を思い浮かべる方がほとんどだろう.ミーハーなわたくしはこのブームに便乗してブログ形式で自分なりに量子力学を自分も含め初学者でもわかるようにまとめようと思ったわけだが,参考にするのは井田量子と谷村量子である.この二冊も今年の本であるが,何故か堀田量子の購入の機会を逃していてずっと買えないでいる.以後続くブログは井田量子と谷村量子を参考に量子力学を導入し,それらの本に書かれてない水素原子をゴールにしたいと思う.
 さてこれより量子力学を解説していくわけだが,まず量子力学とは何か.物理学者なら「ミクロな系を記述する学問」と答え,数学者なら「Hilbert空間上のユニタリ演算子を調べる学問」と答えるのが普通だろうか.前者がわからないのは単に読者の語彙力不足であるが,後者は講をある程度の数だけ読み終えると理解できるはずである.

Hilbert空間のまえに

 Hilbert空間を導入するにあたってざっくりと量子状態について説明する.なんとなく読み進めればよい.古典力学では例えば質点のある時刻の状態,例えば位置と運動量のセット(\mathbf{x},\ \mathbf{p})を何らかの測定をして知るのに1回だけそれぞれ測定すればその測定値から(\mathbf{x}_0,\ \mathbf{p}_0)という状態であると定めることができる.そのため古典力学においては状態とは物理量そのものであり状態とはなにか問題になることはない.しかし量子力学では系の全く同じコピーをたくさん用意し,それぞれ全く同じように物理量Aを測定してもコピーごとに異なった測定値が得られる.よって量子力学では物理量の1回の測定値から状態を定めることができない.そこでたくさんのコピーの測定値から測定値aが出現する確率分布P(a)を得る.量子力学における状態,量子状態とは物理量の測定値の確率分布を与えるものとして定める.確率分布を与える方法はいくつかあるがここでは「演算子形式」というものを採用する.演算子形式において量子状態はHilbert空間を用いて表現する.本講義ではHilbert空間を説明することを主とする.

Hilbert空間

 まず「空間」とは何か.我々が認知している空間のことではない.空間とは数学の用語であり,簡単に言えばルール(公理という)をもつ集合のことである.Hilbert空間はベクトル空間にさらにルールを加えたものである.ベクトル空間の定義は

1 加法の結合律 s+\{t+u\}=\{s+t\}+u
2 加法の可換律 s+t=t+s
3 加法単位元の存在 \exists0\in S\mid s+0=s
4 加法逆元の存在 \exists-s\in S\mid s+\{-s\}=0
5 加法の閉性 s+t\in S
6 加法に対する乗法の分配律 a\{s+t\}=as+at
7 数の加法に対する乗法の分配律 \{a+b\}s=as+bs
8 数の乗法と乗法の両立条件 a\{bs\}=\{ab\}s
9 乗法単位元の存在 \exists1\in\mathbb{R}\mid1s=s
10 乗法逆元の存在 \exists c^{-1}\in \mathbb{R}\mid c^{-1}cs=s
11 乗法の閉性 as\in S

の11の公理(公理の集まりを公理系という)をもつ集合Sとされる.ただしs,\ t,\ uSの任意の元,a,\ bは実数\mathbb{R}の任意の元,cは0でない実数\mathbb{R}の任意の元とする.言葉で説明しよう.
1.加法はどこから計算しても同じ
2.加法は交換しても同じ
3.足しても同じ元になる元が存在する
4.足したら3.の元になる元が存在する
5.足しても同じ空間の元になる
6.数を分配して計算できる
7.元を分配して計算できる
8.数をどこから計算しても同じ
9.掛けても同じ元になる数が存在する
10.掛けたら9.の数になる数が存在する
11.掛けても同じ空間の元になる
※公理5と公理11のように演算しても同じ空間の元になることを,演算が閉じているという(例えば平面ベクトルを足したりスカラー倍しても3次元空間に飛び出ることはない)
 a,\ bなどを実数としたが有理数複素数など公理系を満たせるようであればなんでもいい.自然数は負数がなく公理4が考えられない.整数は公理10が考えられない.数学の言葉を使えば「体」という数の集合であればよい.体Fで考えるベクトル空間をF上のベクトル空間といいFを係数体という.物理学では実数上のベクトル空間(実ベクトル空間),複素数上のベクトル空間(複素ベクトル空間)くらいしか出てこず,量子力学では複素数を考えるため深入りする必要はない.今後単にベクトル空間といったら基本的に複素ベクトル空間のことを考えることにする.
 ベクトル空間の元のことをベクトルというのだが,公理系の構造だけもっていれば集合に関しては何も規定がないため,物理で考えている平面ベクトルや空間ベクトルなど矢印のベクトル(幾何ベクトルという)だけでなく数列や多項式や関数など多くの数学的対象でベクトル空間を考えることのできる抽象的なものである.Hilbert空間も同様である.
 さて本題のHilbert空間であるが早い話「完備性という必要な性質をもつ内積」というルールを入れたベクトル空間である.「完備」とは限らない内積をもつベクトル空間を計量ベクトル空間もしくは内積空間という.ここでいう「内積」はベクトル空間が幾何ベクトル以外でも考えることができたように,幾何ベクトルの内積の拡張となっている.内積の定義は

1 体終域 s\cdot t\in \mathbb{C}
2 共役対称性 s\cdot t=(t\cdot s)^\ast
3 第一引数線形性 \{as+t\}\cdot u=a\{s\cdot u\}+t\cdot u
4 正定値性 s\cdot s>0\mid s\neq0

の4つの公理を満たす2引数の写像である.係数体は複素数とした.実数であるときは終域は実数となり共役対称性はただの対称性つまり幾何ベクトルでよく知られている可換性となる.線形性は別に第二引数でもよく選択の自由がある.第一引数線形性を選んだ場合,第二引数は
s\cdot \{at+u\}=(\{at+u\}\cdot s)^\ast\\=(a\{t\cdot s\}+u\cdot s)^\ast\\=a^\ast\{s\cdot t\}+s\cdot u
と斉次でなくなる.これは共役線形性と呼ばれる.量子力学では普通,第二引数線形性を選ぶのだがわたくしの嗜好の関係上第一引数線形性を選んだ.
 正定値性は自身との内積が加法単位元(内積空間ではヌルベクトルという)でない限り正の実数になるという要請である.ヌルベクトルのときは加法単位元の性質と第一引数線形性より
0+s=s\\
0\cdot t+s\cdot t=s\cdot t\\
\therefore0\cdot t=0\\
0\cdot0=0
のため0になる.ヌルベクトルと数の0は同じ記号を使っているため注意して判断せよ.正定値性は正の実数になるという要請に加え0ならばヌルベクトルという意味も含んでいる.正定値性より自身との内積0以上の実数であるため平方根を考えることができる.これは幾何ベクトルにおける大きさに対応するもので
\|s\|:=\sqrt{s\cdot s}
と表しノルムという.正確にはノルムは内積のように公理によって定められ定義に内積は不要でもっと一般的なものであり,これは「内積の誘導するノルム」というノルムの一種である.しかし物理学においては普通ノルムがあれば内積があるので「内積の誘導するノルム」をノルムとして差し支えない.さらに差のノルム\|s-t\|を距離という.距離も内積やノルム同様,公理によって定められこれは「ノルムの誘導する距離」なのだがこれも単に距離ということにする.
こうして内積空間を定めたがこれに「完備性」をもたせればやっとHilbert空間になる.正直,量子力学を理解するのに完備性を理解する必要はあまりなく内積空間が理解できていれば十分である.一応完備性について説明しよう.ある数の集合Nからなる無限数列\{a_n\}があって
\displaystyle\lim_{n\rightarrow\infty}|a_n-a|=0
を満たすNの元aが存在するとき,aを収束先もしくは極限といい収束先をもつ数列を収束列という.加えて就職先をもたない人間をニートという.また
\displaystyle\lim_{n,\ m\rightarrow\infty}|a_n-a_m|=0
を満たす数列をCauchy列という.収束列ならばCauchy列であるがCauchy列は収束列とは限らない.ある数の集合Nの任意のCauchy列が収束列になるときNは完備であるという.Cauchy列であるが収束列とはならない例として有理数の集合で第n項の数は\sqrt{2}の小数第n位以降を切り捨てた数になる数列\{1,\ 1.4,\ 1.41,\ 1.414,\ 1.4142,\ \ldots\}を考えよう.数列の定義に無理数\sqrt{2}が必要であるが数列自体は有理数になっている.この数列はCauchy列であるが収束先が有理数にないので収束列になっていない.実数で考えれば収束して奇妙だがこういう場合も「発散する」という.有理数は完備でないことを例を一つ挙げて示したことになるが実数は完備であることが知られている.完備という概念は数列を距離空間という空間の列へ拡張することができるが,内積空間は距離空間の一種でありHilbert空間の導入ができればいいので内積空間の列で拡張することを考えよう.内積空間Sの無限列\{s_n\}が収束列であるとは
\displaystyle\lim_{n\rightarrow\infty}\|s_n-s\|=0
を満たす内積空間Sの元sが存在するということであり,Cauchy列であるとは
\displaystyle\lim_{n,\ m\rightarrow\infty}\|s_n-s_m\|=0
を満たすということである.数列では差の絶対値であったが距離になっている.内積空間Sの任意のCauchy列が収束列になるときつまり完備であるときSをHilbert空間という.
 ベクトル空間,内積空間まではベクトル和,スカラー倍,内積という演算を定義するための公理と考えることができ必要性が納得できるが完備性の必要性はどこから来るのだろうか.完備性とはざっくりいってしまうとベクトルの連続性を言っているに過ぎない.つまりHilbert空間とは微分をするのに怖くない内積空間を考えようというただそれだけのことである.物理学では嬉しい仮定は前提であり偏微分を入れ替えたり極限と積分を入れ替えたりやりたい放題できる.これを読んで完備性が理解できなくても読み飛ばして差し支えない.

Hilbert空間の例

例1. n次元複素行

 複素数成分の行
\mathbf{z}:=\begin{pmatrix}z_1&z_2&\ldots&z_n\end{pmatrix},\ \mathbf{w}:=\begin{pmatrix}w_1&w_2&\ldots&w_n\end{pmatrix}
に対して
z\cdot w:=zw^{t\ast}=\begin{pmatrix}z_1&z_2&\ldots&z_n\end{pmatrix}\begin{pmatrix}w_1^\ast\\w_2^\ast\\\vdots\\w_n^\ast\end{pmatrix}
内積を定めると複素行の集合はHilbert空間となる.

例2. 無限次元複素行

 1.を無限次元に拡張しノルムが収束する(二乗総和可能),集合はHilbert空間となる.このような空間をl^2空間という.

例3. 関数

 量子力学を理解するのに数学的に厳密な議論は必要ないので省くが,
\mathbb{R}\ni x\mapsto f(x)\in\mathbb{C}
に対して
\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}x|f(x)|^2=\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}xf(x)f(x)^\ast
が収束する(二乗可積分)ような関数の集合に対して
f\cdot g:=\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}xf(x)g(x)^\ast
内積を定めるとHilbert空間となる.このような空間をL^2空間という.l^2空間の連続版と考えることができることに留意されたい.xの集合や積分区間はもっと一般化できるのだが量子力学ではこれで充分である.一変数だけでなく多変数にも拡張可能である.量子力学では3次元まで考えるので3変数のL^2空間,L^2(\mathbb{R}^3)空間を考えることとなる.内積
f\cdot g:=\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}x\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}y\int_{-\infty}^{\infty}\mathrm{d}zf(x,\ y,\ z)g(x,\ y,\ z)^\ast
となる.
 量子力学の舞台であるHilbert空間を導入したがHilbert空間の説明は次回に続く.
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